ー名を知らぬ人物ー
突然の悲鳴。
その後に物を壊す音が続いた。
「トト!」
ジュールが国王の私室に飛び込んだとき、トトはガチガチと震えながら執務机にもたれかかっていた。
そうして、何度も身体を打ち付ける。
「早く死ね!早く死ね!」
何度も泣きながら、頭を激しく振り続ける兄を見て「やめてください」と静かに言った。
「もう、これ以上・・・私の愛する人を傷つけないでください。あなたが誰であったとしても」
「うぐぐ・・・」
ジュールを見るトトの瞳は必死に助けを求めてきた昔のトトに似ていた。
「助けて・・・助けて」
ああ、私が昔、手を離してしまったあの時に似ている。
ジュールは、過去に戻っていた。
初めて、兄と夜会で踊った夜。
トトは自分の服を強く掴んで言った。
「助けて」
と。
その後、兄の手を掴んでいたのはバストール国の王だったのだ。
レイが出てこなくなってから、まるだけが現れて表向き平和な日々が続いていたのに、すべては小休止だったということなのか。
だがしかし、これまでの事象を見てきたジュールには確信ができた。
トトを傷つけるきちがいと呼ばれる人格。
トトの悲しすぎる記憶を止められるのは、トト本人かサングしかいない。
そう、あの日のサングしか。
私ではない・・・。
ジュールが沈黙していると、トトが泣きやんでいることに気づいた。
「もう大丈夫さ」
「あなたはレイか?」
「いいや」
今まで会ったことのない人物。
トトの中には一体何人の人格がいるのだ。
「もう大丈夫だ」
もう一度、その人物は言った。
「あなたは何者だ?」
「さぁ?」
その人物は、軽く首を振る。顔には穏やかな笑みがあった。
「薬の効果は消えてるよ。そして、きちがいとか呼ばれている奴は、もう出てこない」
「なぜだ?」
つい先ほどまで、あんなにトトを苦しませていた人格が出てこないとは到底思えない。
「トトの中にも、そしてジュールおまえの中にもきちがいは存在する。レイもあねごもまるも、小さな子供も」
「?!」
「人は誰でも、状況に合わせた人格を演じる。それが心という特殊な器官を持ち合わせた人間の進化の形だから。トトは過去を思い出していただけだ。今までのトトを作ってきたのはサングだった。その彼が消えた。これがどんなに大きな損失だったか、おまえにだってわからない。これからもずっとトトはサングを求め続ける。
一人の友として。決して、愛情ではない友情をもって」
彼は、レイよりもずっと高位の存在のようだった。
しかし、発言の内容とは裏腹に緊張感を感じさせない人物でもあった。
「あなたが何者かは知らないが、私の知っている私のトトはいつ戻ってくるんだ?」
「明日にも」
「どうして?」
どうして、そういう運びになったのか?
本当に薬の効果は切れたのか?
それ以上に、謎なのが・・・
「もう一度問う。あなたはなんと言う人物なんだ?なぜ今、出てきて急にそんなことをいうんだ?」
これだけはっきりとした意見を持っていて、自分の名がないとは思えない。
人のアイデンティティというのは、自分がまず自分であると認識できることだ。
そのために、人は固有の名を持つ。
だからこそ、トトの中の様々な人格は固有の名前を持ち、「消える」のを恐れていたのだ。
すると、彼は、そんな心の中を見透かすように答えた。
「だから、さっきも言ったとおり名はない。もし、誰かが私の名を知っていても、それをここで答えてなんになるだろう。おまえは、四六時中、自分自身を「ジュール・アルキュード」だと思って生きているのか?んなわけないだろう 」
フフッと笑いながら、彼は続けた。
「急にこんな運びになったのは、今、ここに私が在るからさ。
自分でも自分が誰なのかなんて、本当はどうでもいいことなんだ。そう・・・明日、おまえの苦手なリーチェ公夫人の前では、そんな口調で話さないだろ?今とはまったく違う心境だろうな。だからと言って、今のおまえが消えるわけじゃない。たとえ、あの時の私は別人なんだと後で考えたとしてもな。だから、明日の私が私でなくても、何を恐れることがあるだろう。それはすべて為るように在るように。
今、ここにいる私だけが私なのさ。明日、トトが戻っても、それは変わらない」
この人物は・・・今までの人格とはまったく違う。
「私の存在を認めて」「消えたくない」「私はトトじゃない」
そういう考えが根本にない。
すべて為るように在るように。
「それが・・・あなたがたどり着いた答えなのですね」
すると、トトは微笑んだ。
まるで何事もなかったかのように、あくまでトトのままで。
そして、一言言った。
「私はぬいぐるみも好きだよ」
続く

