あの人が臥せっていると聞いてから、どれくらいたったろう。
はっきり言って、もうどうでもよいことだった。
私には過去の人だ。 あの人の優しい掌の上で、永劫の苦しみにさらされることを知ったその日から、あの人は私の中で死んだのも同じだった。
そして、私は最後の別れとなったその時のことを思い返すたびに、何度となく心で叫んだ。
ー早く消えろ、死んでしまえ!私の中のあの人よ!ー
すべての悪夢はあの人からはじまっていた。
あの人の被害者でないのは、私だけ。
私のまわりはもれなく、あの人の被害者だった。
実のところ、あの人の罪は私のまわりだけではなく、もっともっと広がっていたのだ。
そのことを思うと、私の心は怒りで満たされた。
あの人は、変わってくれると思っていた。
すべてから解き放たれて、自分の人生を歩んでくれると信じたかった。
それなのに、罪はますます膨らみ、あの人の罪深さは増していくばかりであったのだ。
しかし、私の中のあの人は…昔と同じように
常に悲しみに満ちた優しい笑顔のままだった。
空気のように、悪事を行える。
そんなのは人間じゃない。
優しさで人を滅ぼせるなんて、人のなせる業ではない。
きっと、あの人は不幸を吸わないと生きていけぬのだ。
だから、いつもあんなに悲しそうなのだ。
かつて、あの人に愛がいかに深く恐ろしいものかを教わった。
だからこそ、私は愚かな人間でいいと思った。
人を…本気で愛することを知らない人間でいいと思った。
そのことを、人に非難されようとも。
こんな私を非難できるのは、世界でただ一人、あの人だけなのだ。
そして、あの人を非難できるのも、きっとこの世でただ一人、私だけなのだ。
ジュールはずっとあの人のそばに付き添っている。
ジュールは私に来てくれともなんとも言わなかった。
ただ「会うのなら、最後かもしれない」とだけ言った。
私は、あの人の死にざまを笑ってやりたかった。
「人は一人で死んでいくんだ。あなたのように、『愛する人と落ちていくのなら地獄でもいい。』とは私は言わない。地獄へは、ひとりで行くんだ。愛する人に永遠に会えない孤独こそ、あなたが背負う罪」
あなた、ご自分の愛とやらのために、何人の人を犠牲にした?
本気で人を愛したがために、どれだけの人たちを傷つけた?
まるで神のごとく、人の人生を操り、愛を語った。
人間が神のごとく人をとことん愛すれば、悪魔になっちまうんだよ。
「二度と会うことはないと、昔に誓ったことだから」
ジュールにはそう答えた。
愚かな私たち人間は、上手に人を愛せない。
まるで、「愛」を尊いもののように扱うけど、それがどんなに深く突き刺さる狂気かなんて、知っている人は少ない。いや、認めたくないだけだ。
愛を否定した途端、生きていけなくなってしまうから。
人は弱い。神のように強くはないのだ。
・・・
「終わりました」
極めて事務的にジュールは言った。
育ての親を亡くしたとは思えない冷静さであった。
「…」
「これからバストール側が手続きをすることになりますが、お会いしますか?」
「もう会わない…ないと…言ったはず」
声をからしたトトの肩にジュールは手を置いた。
「会いたがっていた」
「違う」
「アンジュー公が、です」
「会えない。もう…」
トトは肩で大きく息をした。
絞るように言った。
「あの人は、どうしてご自分の命を縮める、愛とやらを捨てなかったのか!」
次は怒鳴って、そばにあったテーブルを叩いた。
「どうして、愛を捨てなかったのか!!!」
捨ててほしかった…。
そうすれば「人」を捨てなくてもよかったのに。
あの優しい人は。
「人…それぞれですから」
顔を背けたジュールの声がかすかに震えていた。
二人は、そのままじっとしていたが、トトがジュールの手を優しく振りほどいた。
「ねぇ、今度…今度さぁ、梅を見に行くんだ。美味しいものを持って…梅を見に行くんだ」
出ていこうとするジュールの背中にトトは声をかけた。
「…うん」
笑顔でうなづいて、ジュールはトトの部屋の扉を閉じた。
それはとても滑稽な光景だった。
涙を流して、無理やり笑顔を作って、明日を生きるという。
人はこんなにも滑稽で愚かなのだ。
だから、私はこんなに愚かに生きていく方を選んだ。
もっといい加減でいいのだ。
我々は、天国でも地獄でもない世界を生きている。
愛を抱えて、地獄から手を伸ばさなくてもいいんだ。
たとえ、これが最後でも、私はまた後の世であの人と出会うだろう。
その時、私はあの人になんと言うだろう?
実のところ、何度も会いたい時があった。
それがもう会わないと誓ったのは、いつからだったろう。
あの人が、過去だけではなく現在の人々にも手を伸ばしていると知った時、
私は、あの人を救うのを諦めた。
貴方のような人が、人を不幸にしてはいけない…。
昔、貴方は言いましたね。
「人を本気で好きになったことがない君にはわからない」と。
その時、私は「自分の生きる姿を愛する人に焼き付ける」と返した。
でも、今ならこう返すだろう。
「愛する人に本気で愛されなければ、何もわからない」
人は愛するだけでは何も見えないのです。
愛されなければ、何もわからないのです。
生きる喜び、幸せを思い描くこと。
そして、それが過去にとらわれたものではなく、たとえ愛する人がこの世から去っても
ずっと続くことを。
私は貴方を救えないし、もう貴方を必要としていないのです。
私はとても幸せです。
だから、今はさようなら。
神様がもしおられるなら、
あの人を真っ先にその御手の中で抱いてください。
あの人を愛してください。
それが、人間に愛をいうものを教えた、
貴方の義務です
トトは祈り続けた。
「きっと来る明日を楽しもう…だって、私はまだ生きている」

