この度に起こった出来事は、僕の記憶に何がしかの深い印象を残した。
今までの人生は平坦とは言いがたかったが、あのような悲劇を目にするのは・・・。
僕は考える。
人の人生とはなんだろうかと。
彼女は今、何を考えているのだろうか。
この息も凍るような日に、あの人は冷たい塀の中で。
何度も問うた。
これでいいのですか?
これで本当にいいのですか?
彼女は、まるで本当の罪人のように、しかし悲劇的な神々しささえ湛えて、首をゆっくりと下げた。
僕は考える。
愛とはなんだろう。と。
そして、未だに答えは見つからない。
登場人物:
マリウス・マレシャル
イルミーネ国の貴族院議員の補佐官。議員のレオーネと組んで仕事をしている。
法科大学院の秀才で弁護士を目指していたが、優秀さを認められ王宮に招かれる。
物腰が丁寧で生真面目な好青年だが、たまに本当すぎることを言ってしまうため、レオーネには「言いたいことは半分にとどめておけ」と釘を刺されている。
レオーネ・クレランス
貴族院議員で、国王の改革派に属している。国王の従兄妹とはいえ、身分不相応とされた国王の母方の出のため、貴族であるものの働かないと生きていけないという立場。地方で育ったため、素朴な感覚をもっているが、普段は貴族然とした態度をとっている。
セシリー・ヴィネ
イルミーネ国の隣国バストール国の出身。実家のヴィネ家は王家を凌ぐ有力貴族である。今はイルミーネにあるクレランス家の屋敷で暮らしながら、レオーネとマリウスと共に、議会に提出する意見書や草案を作成している。可憐な美少女だが、はっきり物事をいう気の強い性格。
トト・イルミーネ
イルミーネ国の国王陛下。おかっぱ頭と茶色い瞳のお人よしの王様。イルミーネ国を改革するために、多忙な日々を送っている。
ジュール・アルキュード
アルキュード公と呼ばれるトトの異母兄弟。美しい容姿と冷徹な頭脳をもって国政に多大な影響を与えているため、国家の支柱とも呼ばれる。
アンナマリ・ヌベール
花屋で働く30代後半の女性。明るく童顔な容姿。どこか影のある笑みを浮かべることがある。
毎日、同じ通りを同じような歩幅で歩く。
人は、僕を几帳面な男だと称す。
その言葉の裏側は、気も利かず不器用で融通がきかないという意味だと知っていたけど。
それでも、20年以上もこうして生きてきたので、簡単には変えられないのだ。
人間など、そうそう変われるものじゃない。
「どいたどいたーー!!」
突然の轟音と土煙。
何が起こったのか知ったのは、曇った眼鏡をハンカチで拭った後だった。
遠く過ぎ去っていく荷馬車。
よほど急ぎの用でもあったのだろう。
「何よ、あれ!」
「ひどーい!!」
まわりの女性たちの悲鳴を聞いて、自分の身の回りを見てみると、酷い様相だった。
頭の上からつま先まで、土ぼこりで茶色に汚れている。
「どうしよう」
こんな姿で王宮には上がれない。
今日は幸いにも議会が開かれない日だ。
それにしても、これでは門番にいやな顔をされてしまうだろう。
初めて王宮に招かれた時のように。
帰って着替えるしかない。
しかし、家に戻るのには時間が足りない。
頭が真っ白になった時だった。
彼女に声をかけられたのは。
「ちょっと、そこの人!こっちに来なさい!」
振り返ると、緑の香りが漂っていた。
・・・・・
招き入れられたのは花屋だった。
まだ開店したばかりのようで、切花たちが大きな束で大きなバケツに入ったままだ。
彼女は、土埃にまみれた僕の服を、大きな羽箒で音が出るほど強く叩いた。
「どこに行くのか知らないけど、こんな格好じゃ歩けないでしょ」
そうして、濡れたタオルで僕の顔を拭った。
「あなたって背が高いのね。ちょっと、顔下げてくれない」
「あ、はい」
眼鏡を取る前に、彼女の顔が見えたのは幸いだった。
たぶん、僕よりも一回りは年上のようだ。
しかし、どこかしら可愛らしい少女の面影を残している。
前髪を真っ直ぐに切っているせいかもしれない。
ストレートのブラウンの髪。リボンのついたヘアバンド。
長いまつげの中の瞳は、茶色く人懐っこい。
太く薄めに書いた眉毛をハの字にしているのは、僕の頬についた泥がなかなか落ちないためか。
「だいぶよくなったけど、完璧じゃないわねー」
「ありがとうございます。もう行かないと」
「あ、そう。とりあえず、じゃあこれでよし!」
背中をポンと叩かれて、かばんを持たされた。
「では、これで・・・」
「いってらっしゃい!」
花屋を出かけて、僕は振り返った。
「そうだ、その・・・お礼を今度・・」
「気にしないで!」
手を振る姿を見ながら、王宮への道を急いだ。
よく考えたら、名前も聞いてない。
帰りに・・・いや、帰りは遅くなるので、休日にもう一度あの店を訪れよう。
・・・・・・・・・・・・
「今日はずいぶんと遅かった」
王宮の一室に入るなり、先にいた人物がそう声をかけてきた。
時間は過ぎていないはず。
この人こそ、時間にうるさい別の誰かに連れられてきたのだろう。
目の前に座る人物が、大して几帳面でないことはよく知っている。
「いろいろと・・・」
「埃っぽいな」
人の理由をさえぎったまま、レオーネはこちらを向いた。
足を組んでソファに座り、手にはコーヒーカップを持ったままだ。
一瞥して、口を開いた。
「どうした、それは?」
「どうもこうも・・・荷馬車に引っ掛けられて・・・」
「だから、前から言ってたじゃないか。馬車を買え」
「置くところがありません」
「なら、屋敷を借りろ」
「今のアパルトマンの管理人さんが、いろいろと手伝ってくれるもので」
「メイドを雇え」
「・・・」
僕は・・・
自分の家に家族以外の誰かが住んでいて、全面的に自分の面倒を見てくれるなんて環境には慣れていない。歩いていける距離に乗り物を使うという感覚も。
ましてや、独り身で広大な屋敷を持つなんてことは考えられない。
「どうした?」
急に黙ってしまったので、レオーネはもう一度、聞いた。
「あなたとは違います。無駄をしたくないので」
レオーネは、少しばかりぎょっとした表情で僕を見た後、ふと自分の背後に視線を向けて、もう一度向き直った。レオーネの背後のドアが開いて、金髪の少女が姿を現す。
大量の書類を持ったセシリー・ヴィネ嬢は、同時に二つの視線を受けて、
「なに?なに?」
と首をかしげた。
レオーネの視線がこちらを意味ありげに見つめている。
”なら、これはどうなんだ?”
と言わんばかりだ。
セシリー・ヴィネ嬢の実家は、隣国のバストール国の王室をしのぐと言われている財の持ち主。
・・・・レオーネの言いたいことはわかる。
彼女こそ、広大な屋敷と黄金の馬車と無数のメイドに囲まれて育った人なのだ。
しかし、彼女は意外にもそういうことを感じさせない。
高貴で美しい、それはそうなのだけど、飾らない人柄と言うか・・・。
セシリーとは違い、レオーネはいかにも貴族然としている人物だった。
長い黒髪を首筋のあたりで結び、黒い上着に赤いベストを着ていて、
その姿は、この国の貴族の正装を着こなしていると言えた。
だが、当人は田舎貴族だと半ば自虐的に称している。
もっとも、レオーネが素朴な環境で育ったのはたしかなようで、馬で野山を駆け巡るのが好きらしい。都会の貴族が興じているカードゲームよりも、けん玉で競うほうが面白いとも言っていた。
しかし、どんなに飾らなかろうが素朴な環境で育とうが、二人は貴族で、僕は庶民だ。
ふとした感覚の違いを感じる時、理解せざるえない。
「転んだの?」
セシリーが、僕の下に立っていた。
「その・・」
「馬車にひかれたそうだ」
「え?!!!」
レオーネが笑いをこらえながら、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「レオーネ!」
「だから、馬車に乗るように言ったのに、さ」
悪い冗談を言われたと知り、少しばかり顔を紅潮されたセシリーが、テーブルに置かれたカップをさっと取り上げる。
「まだ残ってる」
「こんなものばかり飲んでたら、脳が腐るわよ。無駄を省かないとね」
憮然としているレオーネの前に書類を広げて、セシリーは僕を呼んだ。
「身体が大丈夫なら、大丈夫ね。埃じゃ人間は死なないわ」
彼女の(見た目にはそぐわない)辛辣な舌の前では、小さなことは吹き飛んでしまう。
「さぁ、はじめましょう。レオーネ、マリウス。これが、今度あなたたちが取り組む課題よ」
草案をセシリーが作り、レオーネがそれを議会で発案する。
僕は、レオーネの補佐として隣に並び立つ。
僕たち3人は、そうやって議会という戦場を共に戦う仲間だ。
こうして仕事に向き合っているときは、お互いの違いを感じずに一体になれる。
話がまとまった後、レオーネに昼食を誘われた。
二人で王宮の廊下を歩いていると、向こうから身分の高そうな御仁が二人歩いてきた。
そういえば、この人たちは僕たちと同じ立場の貴族院の議員だ・・・ただし対立している派閥の。
彼らは相当高貴な方々と見えて、こちらを一瞥くれてフン!と鼻で笑った。
その態度にムッとした僕の隣で、レオーネは「今日の日替わりサンドは何だろう?」と聞いた。
「たしか、ハムとクリームチーズのクロワッサンサンドだったと思う・・・けれど」
「そうか、それはよかった。あれに蜂蜜をつけて食べると美味いんだ」
「あ、しかし・・・」
例の二人は、相変わらず馬鹿にしたような笑いを浮かべている。
「どこを見ている?誰もいないじゃないか。我々が気にするべきは、クロワッサンサンドの中身だけだというのに!」
レオーネは、高らかに笑った。
これ見よがしの侮蔑を受けて、二人は顔を歪ませて早足で去っていった。
「ああいった手合いを気にするなよ。身が持たないぞ」
「ああ、でも・・・あまり悪印象をもたれるというのも・・・」
「はじめっからいい印象なんてもたれてはいないさ」
ふう、と一つため息をついて、レオーネは言った。
「おまえが学問を武器として生きてきたように、私もこういう生き方を武器としてきた」
それから、王宮近くのカフェでクロワッサンサンドを食べたのだけど、レオーネからはいつもの貴族然とした態度は消えていて、新しく手に入れたけん玉の話をしていた。
それから、何日かして。
僕は再びあの花屋を訪れたのだ。

