心地の良い幸せな夢からは帰りたくない。
その頬の香り。
とても懐かしい気がする。
こんな幸運がまだこの世にはあった。
目覚めると、重い身体があった。
また、朝が始まって、私は私として生きていく。
夢の中では、全てが私にとっては普通だったのに。
まだ気だるさが抜けない。
皿に載ったパンをひと千切り。
「まだ目覚めていらっしゃらないのよ」
そばで笑う声が聞こえる。
寝起きが悪いのは、昔からだ。
さらに昨日はワインを飲みすぎた。
「目覚めたくないのに、無理やり起こすから」
「いつ起きるかわからないなんて、明日いらっしゃる奥様にお話ができませんよ」
「母様が?聞いてない」
「今、聞いたでしょう」
メイド長のマーガレットは、フンと鼻を鳴らした。
「ほら、髪もぐちゃぐちゃで。外に出るのにいつまでかかるのやら」
「今日は忙しいんだ。早く外に出られないと困る」
食事も早々に済ませて、髪を手早く濡らす。
こうすると、跳ね上がって乱れた髪は次第に落ち着いてくる。
そうして薄手の上着を羽織り、玄関先まで来た。
後ろから、まだ幼さを残したメイドが声をかけてくる。
「まだ、髪が濡れていますよ。お嬢様!」
「その呼び方はやめてくれと言ったはずだが」
「あ、すみません。レオーネ様」
「様なんてつけなくていい。せめて名前で呼んで欲しいだけ」
今日は、日差しが強い。
家を出た途端に肌がひりひりと痛んだ。
せめて、日差しに強い肌だったらよかった。
今日は、別段行くところもない。
忙しいのはフリだけ。
家にいたくない理由があると、いつも私は忙しくなる。
そんなわけで、
どこに行くわけでもなく歩いていたら、ピアノの音が耳に入ってきた。
クラシックには詳しくない。
だけど、誰もが一度は聴いたことのある曲だった。
弾いている主はわからない。
巧いかどうかの前に、まだレッスン中のようだった。
時折、曲が途切れる。
しかし、弾くようなリズムは弾いている主の性格を現しているようだ。
こんなにリズミカルな曲だったかな?と思わず首を傾げるも、蔦のからまった白い塀の向こうでは、ステップを踏むような音色が流れ続けている。
きっと、歳は自分より下の、無邪気な笑顔、小さくても輝く瞳…。
そうして想像していると楽しい。
おそらくは、そのような彼女…の姿を確認せずに家の前を横切った。
心にしみいるような風景でさえ、自分の異質性を感じさせる。
幸福感と卑屈さが入り混じったどうにもならない痛み。
日差しから逃げるように入った喫茶店では、店員にメニューを持ってくるように頼んだ。
「ねぇ、あの人。男の子、それとも女性?」
いつの間にか、店員たちが固まってこちらを見ている。
予想できたことだが。
メニューを持ってきた店員が、それを渡しながら、じっとこちらを見ている。
「えっと…」
「はい!」
「…」
途端に目を見開いた彼女に、どうしたの?と視線を向けると、ニンマリと不自然な笑顔を返した。
「オレンジジュース」
”いや、だからオレンジだって…”とは言わない。
外見よりも注文を気にして欲しかった。
「お、オレンジ…で」
「あ、すみません!」
慌てた様子でカウンターのほうへ駆けていった彼女は、数人の女性と目配せしあう。
そして、喉に手を当てた。
ああ、声。
それで…か。
昔は、あえて低い声で話そうと努力した時もあったが、無理だとわかってやめた。
私の声は高い。
女性の中でも割かし高めである。
何事も無理をすると可笑しな具合になる。
今まで生きてて判明したこと。
そして、今の私には別段男装しているという意識もない。
いつもと同じような服を着ている。という感覚のみだ。
自分が男になりたいかどうかは、実のところ、昔から不明だった。
いつか男性の身体になると思っていたが、かと言って女性の身体になっても、こんなはずではないというほどの違和感もなかった。
ただ、この姿のほうが自分らしくいられて、気楽だ。
いろんな経験を隔てて、今の自分がある。
男性用の下着は自分の身体には合わなかったし、身長も一般の女性よりも低く収まった。
これでは、男みたいな格好をすることはできても、男物を購入するには難がある。
全ては現実との折り合いで決めた。
もちろん、女性の服装をしていた時期もある。
女として生きようとした。
だが、優越感と違和感とで痩せこけていく自分がいるだけだった。
そうして、母様のようになるために、母様のように話し、振舞った。
結果は惨めなものだった。
男と付き合うたびに感じる。
男性嫌悪とでもいうのだろうか、こんなはずではないという違和感。
何か違う。
なのに、説明しようがない。
「あんたには興味がわかない」
という言い訳しか思い浮かばない。
すべての恋愛性的行動に対して、「なぜ私が?!」という疑問が沸く。
ノンケの人からしたら、それこそ同性にレイプされたくらいの気分なんだろう。
などと考えもした。
この考えは間違っているかもしれない。
しかし、そのレベルでの違和感だということだ。
でも、当時の私には許されない感情だった。
母様のように生きなければならない。
そうしなければ、人生での敗者になってしまうと認識していた。
だから、
これが普通。
これが当たり前。
目をつぶって、幸せを感じなさい。
…
「ごちそうさま」
もう別に気にしている雰囲気でもない店員たちに声をかけて、店を出た。
街を歩くとカップルの姿がちらほら見受けられる。
この光景に焦らないのはおかしい。とか思った時期もあった。
だけど、未だに焦れない。
すぐそばを女性2人が手を繋いで通り過ぎたりすると、初めて声を失うほどに焦る。
昔も今も。なんだかんだ言って、彼女がいようといまいと変わらない。
今、彼女が隣に居ないというだけで、猛烈に焦りを感じるのだ。
私の夢の世界では、ごく当たり前のことが、現実では当たり前ではない。
現実世界に独り残された感に押しつぶされそうになる。
焦りはそのためかもしれない。
アクセサリー店を見つけて、そこへ入る。
髪を留める金具が欲しかった。
簡易的なものでいい。
目的物は残念ながら見つからなかったので、豪華なネックレスを鏡の前で合わせてみた。
予想通り、歪な雰囲気になった。
私に似合わないのではなく、今の私には合わないだけなのだろう。
苦笑いを堪えながら、店を出た。
そういえば、この近くに書店があった。
いつの日だっただろう。
その店の前で見覚えのある人影とすれ違ったのは。
そう昔でもなかった気がする。
まだ少女だった頃に、傷つけた相手だ。
あの頃は…大嫌いな自分を彼女に重ねていた。
君に惹かれなければ、私は世間的にはまともでいられた。
それなのに、君は私に惹かれていた?
君の願いは、自分と世間的にまともに生きてくれる相手と一緒になること。
私じゃない。
ありえない。
私が願っても得られない人生を、彼女は歩んでいける。
悔しくて憎らしかった。
君が私と一緒にいたいと言うたびに。
私は、誰かを好きになるたびに社会的な敗者になっていく。
なのに、どうして私に付きまとう!
酷い言葉をかけた。
力任せに振り回した。
自分勝手で荒れていたあの頃の思い出は、どういうわけか、自分を殴りつけるような痛みしかない。酷く醜い姿の自分だけが、他者が見る視点でクローズアップされている。
あの頃でさえ、私は自分がいつか彼女のように生まれ変わると、どこかで信じていた。
現在、彼女は件の男性と結婚し、子供に囲まれてごく平凡的な暮らしを送っていると聞いた。
書店の前を通り過ぎた。
すべては、過ぎ去る過去と共に。
私は昔に比べて、人とぶつかることが少なくなった。
段々と生まれ変われない自分を自覚してきたからだろう。
いつの間にか、自分の主張も悩みも存在もそうたいしたことじゃなくなってた。
今は、ただ明日もこのままいられたらいいな、っていう切なる希望だけ。
いつの間にか、すっかり疲れてしまった。
そういえば、この靴は少し前に買ったばかりで、まだ慣れていないのだった。
履きなれた靴でくればよかった。
しかたなく家に戻る。
こそこそとあたりを伺っていると、「何やってるの?」 と声をかけられ、心臓が飛び出るほど驚いた。
「どうしてそんなに驚いてるわけ?」
「いや、まさか…こんなに早く帰ってくるなんて」
「2日間だけ実家に帰ってくるって言ったのに?」
「ああ…あ~だってまだ1日半しかたってない!」
「予定が変更したの。たいした問題じゃないでしょ」
セシリーの頬にウェーブのかかった髪が落ちていた。
いい香りがふんわりと漂ったように感じて、思わず手を伸ばす。
「なに?」
一度目とは違ってくすぐったいような声だった。
「今日は、いろいろ思い出してさ」
「そう…でも聞かない。話したいなら、聞いてあげる」
「思い出したのは…君がいないと不安になるって。それだけさ」
セシリーは頬に触れた手をそっと握った。
「触れても、いい?」
「そのまえに、マーガレットさんに出かけた理由を話したほうがいいんじゃない」
「…」
「お母様が来るのは明日でしょうに」
「嘘は付けないな」
セシリーと暮らしていようと、他のいかなる事実があろうとも、母様にとって彼女は未だ私の友人だ。
「明日はともかく、明後日は…朝から王宮へ」
「じゃあ、明日は私が適当にやっておくから。あまり疲れないように」
「その日は君も…国立図書館で講演があるだろう。お互いに…」
無理しないほうがいい。
そんな結論に達した。
誰がどう思おうと、これからもこうして支えあいながら生きていく。
「まぁ、いつの間に帰ってらしたんですか!こそこそと出て行って、こそこそ帰ってきて」
「マーガレットさん、ただいま!」
「まぁ、お嬢様。私はね、うちのお嬢様について言っているんですよ。声くらい出しなさい」
「今、帰ってきたばかりだよ!」
マーガレットは眉を吊り上げて、こちらを見ている。
彼女は昔からそうだった。
遠慮がなくて、取り繕うこともなく。
「明日は奥様がいらっしゃいますよ。お昼の用意をしておきます。
その後はたしか…お二人とも王宮に行かれる予定でしたよね」
「え…?」
「そうです」
代わりにセシリーが返事をした。
去っていくマーガレットの足取りはリズミカルに軽く…。
「ふぅ」
口からは、ため息とともに苦笑いが出た。
「明日は、どこへ行く?」
ニコニコしながら枕を抱えるセシリーを見て、恐れ多く思う。
ああ、彼女にもかなわないなぁと。
「今日行った道をもう一度二人で辿ろうか。別に何を思い出してたわけじゃないんだ。ただ…」
「ただ?」
「寂しかったんだ。一人で歩くのが」
明日は、二人であの道を歩く。
もう寂しくない。
怖くない。
彼女の手を握った。
明日もこうして歩けるように。
END

