-イルミーネの国王3(本編第1章)-

イルミーネ国の物語

―閉じられた本のように―

「その時、私には何が起こったのか、まったくわからなかったのです」

ここ数日間、トトはポニーと過ごす時間が一日の大半を占めていた。
ずいぶん気に入ったようだ。
今では、一人で乗り降りもできる。


そんなある日…

「ねぇ、母上。お外に出てみたいよう」
トトは、近くにいる母ルイにおねだりした。
「そうねぇ」
「私がお供いたします」
厩番が進み出た。
ここを預かるものとして当然の行動であったのだが…

「やだ!」
トトは首を振った。
「母上と二人がいいの!」
「はぁ…」
王太子殿下のわがままに厩番は困り顔だ。

「じゃあ、私の馬を用意して」
「王妃…」
厩番は躊躇う様な表情を見せた。

「今の時期は、雪が解け始めていて馬の足が取られやすい。地の境も見えにくくなっております。この近くの森は、私がよく存じております。なにとぞ、私にお供を…」
「ううん、では、そうしてもらおうかな」
厩番のいつにない心配気な表情を見て、ルイはそう言ったが
「やだ!母上と二人でなければ行かない!」
トトはおへそを曲げてしまった。

「そんなに言うなら一緒に行くから」
やっぱり馬を用意して、とルイは言った。

「お気をつけください」
馬にのったルイに厩番は声をかけた。
「今日は特に気温が高い。くれぐれも道から外れぬように…」
年老いて皺の刻まれた瞼が不安気に震えている。
「わかったわ、気をつける」


「30分ほどで戻るから」
と言い残して、王妃と王太子は馬に乗って出て行った。

「どうか・・道をよく見て・・」
厩番は彼らの背後から声をかけたが、その声は届いたのか…

彼は、この王妃が気に入っていた。
彼女が国王の遊び相手として、この王宮に来たときから孫のように思っていたのだ。
彼女がまさか王妃になるとは思わなかったし、そうなった今では前のように声をかけられないということもわかっていたが、彼女は変わらずに接してくれていた。

正直このような日に、外に出すのは心配でならなかった。
まだ雪が残っている道は、どこに地面があるかの判別がしにくい。
もし間違って、道から外れると思わぬ所に穴が空いている事もあるのだ。

どうか無事で…

彼は願った。



城の裏手に森がある。

まだ雪がだいぶ残っていて、地面が雪の間から所々顔を覗かせている。
時折、肌を切るような冷たい風が吹く。
動物達はまだ眠っているようだ。

森は静寂につつまれている。
サクサクと音を立てて、馬はその中を進んでいった。

「あ、ねぇあそこになんかいたよ!うさぎみたいの」
トトが雪原を指す。
「ほら、手綱から手を離しちゃダメ!」

「ううん」
母の一括を受けて一瞬しゅんとなったトトだが、すぐに笑顔に戻った。
「久しぶりのお外だもん。もっとお外に出てみたいのに」
「もう少し大きくなったら出られるよ」
ルイは苦い笑顔を浮かべながら言った。

トトを外に連れ出そうと何度も試みたが、そのたびに周りの者たちに許可を得なければならない。それに意見を出そうものなら、彼らは口々に攻め立てた。

「将来の国王陛下を何だと思っていらっしゃるのか」
「殿下の御身にもしもの事があったら、どうなさるおつもりか」

―結局は閉じ込めたいだけでしょう。
外の世界を見ることは、将来の国王陛下にとって大事なことだと思いますけれど。
それを止めると言うことは、何も見せず、何も聞かせないほうが都合がいいからじゃないの?
あなたたちにとって―

正直に言ってみたら、数人は青ざめ、数人は赤くなった。
その中の何人かは、罵りの言葉を影ながらぶつけてきた。
それもたいして意味のない言葉で。

バカな人達。
物事をまともに考えられない変人どもだ。
もっとも彼らから言わせると、私のほうが変人なのかもしれない。

ルイは思わず皮肉な笑みを浮かべた。


「母上!もっと大きくなったら、この森の外にも出られるのでしょう」
「もちろんもう少し大きくなったら、ラーデェ地方にでも行こうか。今は、レナの家族が住んでいるのだけれどね。大きな川が流れていて、綺麗な花畑があるところだよ」
「レナ伯母様には、何度かしかお会いしたことない」
レナ伯母は母の妹で、今は母方の実家を継いでラーディの領地にいるらしい。
数回しかみたことがないが、トトの目にはあまり母と似ていないという印象を持っている。
華やかで綺麗な人だった。

「レナのところには、トトの従兄妹もいるんだよ。女の子だけどね、レオーネなんてたくましい名前つけられたせいで、おてんばなんだって!」
私の小さい頃によく似てるって言ってた。
と言い、ルイは笑った。

「母上に似ているって事は、私にも似ているって事でしょ?早く会ってみたいな!その子に」
「すぐに会えるよ」

この子が大きくなる頃には、面倒な王家のしきたり等なくなっていてほしい。
この子が自由に物を見聞きできる時代になってほしい。
マクシミリアンの改革がうまく進めば、可能だろう。

そしていつか、身分制度そのものが崩壊するときがくるのだろう。

新しい時代を見てみたいものだ、とルイは思う。

その時までいつまでかかるかわからないが、生きていたい。

この目で歴史の変革を…。



「あ、あっちにまたうさぎみたいのがいたよ!」
「えっ?」
「そっち、そっちにいったよ!」
トトが動く白い塊を指してみせた。

「ほら、そっち!」
「トトっ!」
トトのポニーが頭の向きを変えて、林の方へ駆け出す。

「道から外れちゃダメって言われたでしょ!」
勝手に走りだしたトトのポニーを追って、ルイも林の中に踏み込んだ。


「待ってよー!」

ズズッ・・
と、背後で低い地響きが聞こえた事にさえ、気を止めないでトトはうさぎを追った。

「待ってよー」
白い綿毛のような塊は、木の洞に姿を消した。

「ねぇ!母上!うさぎいなくなっちゃったよ」
そう言って後ろを振り返っても、母が追ってくる様子がない。

近くにいるはずの母の姿が見えない。馬も・・。

「母上?」
トトの視線の先には
太い木の幹。
所々見えるポニーの足跡。
雪。
白い自分の息。


「母上ーどこ?」
トトは目で母を探した。
どこにも見えない。
全神経を張り詰めて母の気配を探した。

どこかで…声が聞こえた気がした。

不安にかられ、ポニーから飛び降り、そちらへ走り出す。

自分の白い息が視界を遮り、邪魔をする。
それを振り払うように、めちゃくちゃに腕を振り回しながらトトは叫んだ。
「母上!どこなの!!」
「…」
今、確かに母の声がした。
そちらへ向かってひたすら走った。


まず目の前に飛び込んできたのは、母の馬。

白い雪原の中にあいた裂け目に落ちて、もがいている。
馬の息が煙のように、そこから立ち上っていた。

母の声はどこからもしない。

いや、かすかな音が聞こえた。
地の裂け目から、馬の身体の下から。

「トト」

「トト、人を…」

はっきりと名前を呼ぶ声。


「あ・・」

足がガクガクと震えた。

よく見ると、馬の身体の後ろの方から、人間の腕が出ている。

ピクリとも動かない天に伸ばされた腕。



誰か・・
まわりを見回しても誰もいない。

どこまでも白い森。
遠くで鳥の声。

まるで、目の前の出来事が嘘のように、静かな森。

だが
瞳に映る

母の腕。


駆け出した。
ポニーのことも忘れて、自分の足で。
雪に足が取られて、転んだ時に、ようやくポニーのことを思い出した。
手も足も擦り剥けたが、しかし、そのまま走った。

頬に当たる風は、先ほどよりも冷たい。

早く!もっと早く!


こんなに大きな森だっただろうか。
城に着くまでの時間が無限に感じられた。




その場所に人々が着いたのは、それから20分後のことだ。

「王妃様!」
厩番が青い顔で、地から突き出た腕を握った。

縄を馬の首にかけ、引きづり出そうとする男たち。

待ち構える医療班。

国王に現状を知らせに走る使者。


トトは何もできず、そこに佇んでいた。

母上、きっと大丈夫だよね・・。
祈るような気持ちで。

たぶん、馬の下から救出された母上は、いつもみたいに
「失敗しちゃった」
と舌を出して笑う。
そして・・
「トト、えらかったね。ありがとう」
って、褒めてくれる。


「ルイ!」
突然鋭く響いた声に、トトの想像はかき消された。


「国王陛下!」
「陛下!王妃様がっ」
皆、凄まじい形相で国王に駆け寄る。


「どんな状態なんだ」
父の普段とはまるで違う硬い声を聞いた時、トトの背筋が凍った。

何か、とんでもない事が起きているのかもしれない。

その時、
男たちの声があがり、馬が穴から引きづり出された。
馬は、足を引きづりながらもひょこひょこと歩いている。

「王妃様!」
人々の目は、黒い大地の裂け目に注がれた。

トトも恐る恐る、後ろからそこを覗き込んだ。

母は…
泥まみれになりながら、倒れていた。
口と鼻から血を流しているが、大した外傷はなさそうだ。

よかった。トトは一息ついた。

だが、まわりの人々が母の身体を外に出そうとした時
母の口から苦悶の声と共に、大量の血が溢れた。
「だめだ!だめだ!もっとそっと乗せろ」

何人かが担架をもってきて、母をのせた。

苦悶の表情を浮かべたまま、動かない母。



母上、大丈夫なんでしょう。

だが、母の苦痛に咽ぶ声は恐怖となって、トトの耳に飛び込んできた。
今は、母を労わる気持ちや哀れむ気持ちよりも、圧倒的な恐怖をトトは感じた。

もはや、そこにある全ての光景が恐ろしかった。



城に運び込まれた母は白い壁の向こうに消えた。

「トト、大丈夫だ」
父は硬い表情のまま、冷たい手をトトの肩に置いた。

戸口の前で、年老いた厩番が泣いている。
「わしのせいだ。わしのせいだ…」
と何度も呟きながら、頭に爪をたてて。






-数時間後-

「国王陛下・・」
中から、白い服を着た初老の男が音もなく、すっと出現した。

「ルイは、無事か?」
「…」
白衣と同じくらい白い顔の男は、声もなくただ首を横に振った。

「そんな…」
「全ての手は尽くしました。ですが…もはや」

「ルイ・・」
父の背中越しに…母を呼ぶ声が上擦って聞こえた。
その場の空気に押しつぶされてしまいそうだ。

トトは、自分だけがこの光景から切り離されてしまったように感じた。
まるで、遠くから絵本を眺めているようだ。

「母上?」



…目が覚めたとき、まわりに誰がいるのかがわからなかった。
目は見えているはずなのに。

しばらくして、目に映る人影がマクシミリアンであることがわかった。

ほっとして、腕を伸ばそうとしても、腕が動かない。

首から下の感覚が…ない。


私は、どうなってしまったのだろう。
とたんに恐くなって視線だけで身体を見た。

白いシーツからは間違いなく自分の足が見え、腕らしき物が身体の両側に付いているのがシーツの膨らみでわかった。

そこまで確認した後、耐え難い匂いが鼻腔をついた。
強烈な血と、アルコールの、吐き気がするほどの匂い。

傍らのマクシミリアンはそんな匂いも気にならない様子で、無表情で座っている。

「マックス、どうしたの?そんな顔して」
そう言ったつもりの口さえ動かなかった。

「私、手も足もついてる。大丈夫だよ」
「そんな顔してると、不安になるよ。いつもみたいに笑ってよ、マックス」

何も伝えられなかった。



「ごめん、ルイ守ってやれなくて…」
初めて見る悲しく沈痛な表情。

彼の流す涙に、悟った。

-私は死ぬのかもしれない-

不思議なほど、冷静にその事実を受け止めた。



私があなたの前からいなくなる時に、一言言っておきたかった言葉がある。
「結婚しよう」と言われた時にも、言えなかった言葉。

この憎悪の巣窟の中で、あなただけが私を守ってくれた。
困った時、落ち込んだ時、大切な時、いつも助けてくれた事。
どこにいても、たとえ立場や身分が違っても、つねに見守っていてくれていた事。

たとえ、こういう関係にならなかったとしても、忘れる事はなかった。

「ありがとう」

不思議にその言葉だけは、動かないはずの口からこぼれ出た。


「ルイ・・ルイ・・僕はずっと・・」

言わないで。
その先を。
私はもう知っている。

こんな時になると、なんでも受け止められる。

バカだね、あなた。いい人すぎるから。
何でも一人で抱え込んで。

もう一人のあなたの…。


「母上」
静かな小さい声が聞こえた。

トト…

さっきまでの嬉しそうな表情はどこにもない。

また馬乗りしたら、笑うかな?
なんて考えた。

この子と、もっと一緒にいたい。
もっと生きていたい!
いつか、どこか遠いところに行って、家族で馬に乗って走るんだ。どこまでも。

その時、トトはもう少し大きくなってるかもしれないね。
この子と一緒に生きていきたい!

まだ死ねない!

トト…

伸ばしたはずの手は動かなかった。


「王妃様、ご逝去されました」

傍らの医師がそう告げた。


それは、まるで読みかけの本が、パタンと閉じられる瞬間に似て…。

王妃ルイのあまりに突然の死であった。

続く

タイトルとURLをコピーしました