ー頑なな想いー
アンドレア嬢と偽りの関係が続いている。
しかし、無論いつかは切れるのだろう。
友人としてではなく、恋人としての関係だ。
アンドレアは多忙な商人だし、いずれこの地を離れるだろう。
その時、私はどうするのか。
アンドレアについて行きたい気もする…。
トトが結婚するらしいと聞いた。
最初は、リーチェ公夫人の口から、次は本人から。
“そうなのか”
漠然と思い、それも当然と思い返す。
兄は国王なのだ。
しかも、その相手を私はよく知らなかった。そんな事はどうでもいいが。
私には、トトがまたもつまらない意地を張っているように見えた。
まわりに対して何も言えないくせに。
あの人の心は、私の近くにあり、意思は遠く離れている…。
私にはわかる。
どうすることもできないのに…。
目覚めて以来…
いや、トトの自伝を聞いてから、トトは私にとって何でもない存在へと変わっていった。
私の理想でも、神聖な存在でもなかった。
私は幻を見ていたのだという思いは、その人に接する毎、確信に変わった。
でも、いなくてはならない人。
瞳を閉じると現われるのは、小作りの顔をくしゃくしゃにして笑うトトの顔。
美しくもなく、艶かしくもなく…でも、忘れられない。
これが愛だとか、そんなものだなんて信じない。
愛は、もっと醜い。
私は、ただトトに会いたい。話がしたい。
あなたのいる空気に、私は存在していたい。
しかし、私が彼の意思を変えるのは難しい。
意地っ張りの捻くれ者め。
…そういう意味で私たちは似ているのかもしれなかった。
ビクトール・ヴィネは書斎にいた。
白い髭を撫でながら本を読むのが彼の日課でもあり、その様子は、いかにも思案をめぐらせているように見えて、彼自身はこの瞬間、一番安らいでいた。
逆に、ビクトールは思案をめぐらせている時ほど、生き生きと動き回る人でもあった。
その人となりを知っているアンドレアは、叔父の安らぎの瞬間を邪魔しないように、入れたばかりのお茶をそっとテーブルに置いた。
「なぁ、アンドレア」
ビクトールが顔も上げないまま、アンドレアを呼ぶ。
「何かしら、叔父様」
叔父が、アンドレアをこのように呼ぶ時は、わくわくする話の始まりだ。
商売の旅をしている間、いつもそうだった。
しかし、今回は違った。
「おまえ、アルキュード候をどう思っているのかね?」
「え、そんなの単なる噂よ」
アンドレアは、この叔父の前では嘘をつきたくなかった。
「儂が見るに…」
ビクトールは本を閉じ、アンドレアのほうへ向きかえると、大真面目な顔で
「あの方は…少し、変わってはいないかね?変人…とまでは言わないが」
予想だにしない意見に、アンドレアは呆然としたが、すぐに笑い始めた。
「別にあの方の悪口を言っているわけじゃないぞ」
「いやだわ!お爺ちゃん!」
ビクトールは笑うと、すぐに頬が赤くなる。
いかにも好々爺といった表情のまま、彼は続けた。
「儂が、少し前に土産物を持って行った時に、あの方は大変喜ばれてな」
「まぁ、叔父様はアルキュード候にお会いになったのですか!」
聞いていなかった出来事に、アンドレアは声をあげる。
「まぁな」
ビクトールは髭を撫でた。
ビクトールが持っていったものは、この国では珍しい外国の菓子だった。
「これは、あの有名店の!」
アルキュード候は、興奮気味に震える手で箱を受け取った。
「よくご存知でいらっしゃいますね、さすがはアルキュード候」
ビクトールが言葉を言い終わらないうちに、彼は
「これは、国王陛下を笑わせられます!」
と叫び、走り去った。
…が、すぐに元の姿勢のまま戻ってきて
「なんとお礼を申し上げたら…」
と、恥ずかしそうに頭を垂れた。
そして、わざとらしく小さな菓子を摘んでみせて「とても美味しい」と微笑んだ。
「まるで子供のような方で…世間で言われている姿とはあまりに違っていて、驚いたもんだ」
ビクトールは、まるで孫の事を話すかのような口調になった。
「とりすました大人の中に子供が住んでいるような気さえしたよ」
「皆、思うのよね。彼が子供だって」
アンドレアは笑いながら言う。
「儂よりもおまえのほうがあの方について詳しいと、儂だって知っているさ」
唐突に話題を変えられて、アンドレアはつい音をたててカップを置いてしまった。
「私は…違うわ!」
ビクトールだけにはわかってもらいたい。
「あの方がおまえと共にいる件について、おまえはどう思う?双方にどんな利がある?」
「え?」
「アルキュード候は、頭は切れるかもしれんが、どこかで子供のままだ」
「叔父様…」
アンドレアは、直感でビクトールの言う意味が理解できた。
アルキュード候は、現実的な意味でアンドレアと一緒にいるわけではない。
今までのアルキュード候の発言を思い返していると、ビクトールが先に言葉を発した。
「そう、子供じみた理由。例えば誰かへの当て付けとか…な」
「それじゃ、私と同じじゃない!」
思わず、声をあげたアンドレアに、ビクトールはウィンクして見せた。
「そう同じだよ。おまえは、そんなに子供じゃないだろう。好きなように生きていけばいい。
当て付けなんてつまらない事をするものじゃないよ」
国王の私室には火が灯っている。
暖炉の炎を見つめながら、トトは考えていた。
ついこの間、アンドレア・ヴィネ嬢が旅立ったと聞いた。
ジュールは、これからどうするのだろう。
「お呼び出しとお聞きしましたが」
トトは、やってきたジュールに椅子を勧めた。
トトは姿勢を正しているジュールに、自らも腰掛けながら、声をかける。
「ジュール。もし、どこか行きたいところがあるのなら、行ってもかまわないよ」
「…」
ジュールは、眉を顰めたまま答えない。
「私はね、地位で人を縛りたくないんだ」
「あなたは、嘘を言っている」
表情を変えずにジュールは答えた。
「私は、嘘などついていない」
「ならば、どうして…」
「私は…」
おまえと一緒にいたいと思う気持ちが、おまえの最も嫌う感情だと知っているから。
ジュールの事を何とも思わない私をジュールが求めているからこそ、私は戦っている。
ジュールが求める私と、止めどない感情があふれ出しそうな私。
これは、恋でも愛でもない。
己との戦い。
「あなたは…」
瞼にできた金色の影がこころなしか震えて見えた。
「あなたにとって、偽りの関係が幸せだとでも言うのか」
「私は、ドリー嬢といるから幸せなんだよ」
言いながら、トトの脳裏に様々な顔が駆け巡った。
アンドレア、ドリー嬢、ジュール…、私とジュール…。
「あなたの心は別の場所に」
ジュールの声にトトは震えた。
「おまえだって!アンドレア嬢と一緒にいて、幸せそうだった。私の目の前で、二人で話してばかりいた!この私の目の前で!」
激昂しながらもトトはフッと笑みを浮かべた。
「彼女と行くがいい」
「彼女とはそんな関係じゃない」
「嘘をつくな」
「あなたにはついてない」
ジュールは、トトが恐れ惹かれてもいたアイスブルーの瞳を向けた。
「ジュール、また今度一緒に本でも読もう。もし、その機会があればだけど…」
トトは微笑み、ジュールは瞳を閉じた。
そして。
トトの身体を、あの日と同じ香りが包んだ。
「ジュージュ・・」
トトが待ち望んだ香り。
暖かさと力強さ。
包み込むような大きな優しさ。
「私は、幸せになるんだ」
トトは、ゆっくりとその腕に身体を預けながら、呟く。
「ええ、お幸せに…」
ジュールは答えた。
抱きしめる腕を放さないまま。
どこからか、木枯らしの音が泣いていた。
王宮の窓に霜が張りつくようになっても、ドリー嬢からの便りはなかった。
かといって、トトは自分から何もしようとは思わなかった。
“彼女は必要だ”
トトにとって、ドリー嬢は好きにならなければならない対象から、必要な存在に変わっていた。
“いてくれないと困る”
彼女の存在だけが頼りだ。
この腕はジュールを求め、この心は荒れ狂い、彼のそばへと私の身体を運ぼうとする。
戦いに負けそうだ。
あの穏やかな一時は、どこで変わってしまったのか。
あるいは、初めからこうなるように定められていたのか…。
臣下と会談をし、セバスチャンから報告を聞き、リーチェ公夫人とお茶をして、夜会に出席し…。
ジュールとは一番遠いところで、一人佇む。
あの人はいつも人に囲まれていて、アンドレア嬢がいなくなっても何も変わった様子はない。
彼が話す声、笑顔を遠くから見つめて。
心を強く持つようにと…胸に手を置いた。
一人ベッドに眠る夜は、かの人の幻が、あの日のように私を包んだ。
ともすれば、崩壊寸前の心をドリー嬢の幻で慰める。
“彼女は必要だ”
“いてくれないと困る”
私の心を、どうかこの場所に繋ぎとめておくれ…。
暗い闇の中、影は私に問いかけた。
“負けてしまえ。そうすれば楽になれるのに、どうしてそうしないのか?”
私は答える。
“おまえに負けない事が、私の生き方だった”
誰にも負けない事。
かつて、一度死んだ私を蘇らせた親友との誓い。
また、影は囁く。
“その友は、おまえよりも先に負けたじゃないか”
“それでも、私は、私の中にある大切なものを裏切りたくはない。
それに、私は、アンジュー公のようにはなりたくない。
愛を正当化し、愛に溺れ、誰をも傷つける生き方をしたくない。
ジュールこそ、愛の醜さを誰より知っている人だから”
昔、好きだった人の前で言った自らの言葉が、心の奥から聞こえてくる。
「私は、愛する人と結ばれなくとも、その人がもっとも愛してくれるだろう私の姿を
その瞳に焼き付けるように生きたい!たとえ、そのために愛を踏みにじる事になろうとも!」
実弟でもあり、臣下でもあり、同性でもある相手。
あのひとときの続きには何があるの?
ジュールは何を望んでいるの?
抱きしめる腕の熱さ。
おまえは、自らの傷を広げている。
私が塞がなければ、おまえは生き場所をなくしてしまう。
愛はおまえを幸せにはしない。
“すべてはおまえのいいわけさ”
影は、呟く。

私は返事をしない。
影は見知っている人の姿になった。
“ほら、私の言ったとおりだ。人を愛すると言うのはね…何を壊してでも、愛する人に従い、生きる事”
「違う!愛に溺れる私をジュールは求めない。私は誰より彼を信頼している!
彼はそのような人ではない!戦い続ける私を守って…」
手に入るはずだった王位を捨て、ナイフを取り上げて、ワインを取り上げて…、
私を探しにきてくれた。
愛を否定し、愛の醜さを知っているあの人が…
あの人が、一番、私という人間を大切にしてくれていた…。
「あなたは、この優しさを知っているか?」
私は、アンジュー公に向かって問いかけた。
影は、何も言わない。
「私は、愛を捨て、愛に勝つ。でも、この優しさは消せない」

