ーアンドレア・ヴィネー
アルキュード候が宮廷に戻ってくる。
その知らせは、イルミーネ貴族たちの間に駆け巡った。
もちろん、バストール国にも届いた。
ジュールの顔の傷は、ほとんどわからなくなっていた。
トトは今夜も酒を飲んでいた。
最近、飲む速度が遅くなった気がする。
昔、アンジュー公の館で飲んでいた時は、あんなにも時間と空腹を持て余していたというのに。
そういえば、ジュールもゆっくりと酒を飲むほうだった。
胸に浮き沈みする思い出の深さは、次の一口への時間に比例していた。
喉に流し込むたびに、思い出すんだよ。
身体に沁みこむほどに、涙を堪えるんだよ。
そのための時間だと、トトは知った。
私は、ジュールの身体についた傷は癒せるかもしれない。
だが、心についた傷は…。
それでも求める心を止められない。
愛しているはずの女性と一緒にいるときも。
心と身体がバラバラに動いているようだった。
季節が移り変わり、冬。
山国イルミーネの冬は厳しい。
今朝も早くから小雪が舞っていた。
ここのところ、イルミーネ貴族たちは、ある噂で持ちきりだ。
イルミーネ宮廷に吉報がもたらされるのは、時間の問題と思われた。
それは、国王の事ではない。
王弟アルキュード候がヴィネ家の女性と懇意になっているという。
アンドレア・ヴィネは、ヴィネ家の当主ビクトールが後継にと見込んでいる女性で、バストール王妃ジュリエットの伯母にあたる…といっても歳は若い。
豊富な知識は他を圧倒し、新し物好きの若い貴族たちを魅了していた。
加えて明確な知性が、知識に有効的な使い道、すなわち商才を与えていた。
商売相手には「刃物のような女」と称されているはっきりした顔立ちの美女。
さすがのアルキュード候も彼女には参ってしまったに違いない。
と、貴族たちは笑った。
ある貴族は言った。
「女になまじか知性などがあると、生意気になりますがね。我が家に財が増えるのは悪くない話ですし、なにしろ彼女は美しい」
ほとんどのところ、貴族たちは同じような事を考えていた。
アルキュード候は、彼女が持っている財産の大きさと美しさに惹かれていると思われた。
トトがそれを聞いた時、珍しく皮肉気な笑みを浮かべて答えた。
「彼が、そんな人であるものか!」
アルキュード候ジュールが、表面的な知性だけではなく、心の奥にある感性までも要求する人物だと
知る者は意外にも少ない。
ましてや、美しさや財産などに惹かれる人物ではなかった。
だが、トトは実際にアンドレアと話した後、少しばかり考えを改めた。
アンドレア嬢の受け答えは明確で早かった。
トトは、彼女の前では自分が鈍感に思えた。
しかも、アンドレアは、トトがもっとも苦手とする場面を平気で乗り切ってしまうタイプの人でもあった。
すなわち、きつい冗談や受け答えの難しい質問などが大挙して攻め寄せた時。
彼女は、いとも簡単にこれに対応した。
トトが、誰かのきつい冗談を頭の中で何度も反芻しては、相手の真意を考え込んでいる時、彼女の話題は、見えないほど遠くに言ってしまっているのだ。
ジュールは、これほど話のテンポが早い人ではなかったが、彼ならば彼女についていける…
というより、彼女を自分の話の中に引き込む事ができそうだ。
ジュールは、話題そのものを提供するのが好きな人で、他から出た別の話題と自分の話題とを、点と線で囲うのを特技としていた。
広い知識と生まれつきのカリスマ性を生かしたやり方だ。
自身が一番その作戦に征服された一人なのかもしれない…とトトは思った。
どちらにせよ、アンドレア嬢は自他関係なく陣地を飛び回る武将タイプで、 ジュールは持って生まれた
広い陣地をこれ以上はなく生かす智将タイプだった。
トトは…自分が塔の城に閉じこもっている愚鈍で哀れな老国王だと想像した。
夜会に来ては、自然に寄り添うようにしている二人は、生き生きとした表情で会話をしていた。
まわりの声など聞こえないようだ。
そういう日の夜は、トトは早くに部屋に帰る。
“きっと、私とは話せないような事柄を話しているに違いない”
たとえ、話に加わってもついていけない。
“やはり、ジュールにはふさわしい人なのだ”
私は容姿もよくないし、知的でも冷静でもない。
商才なども持ち合わせていない事は、身を持ってわかっている。
何事もうまくできなくてパニックに陥り、泣き出してしまうような情けない人間だ。
ジュールからすれば、療養中の退屈しのぎでしかない。
ジュールは、王宮に戻ってきてから急によそよそしくなった。
冷たくなったというほうが合っているかもしれない。
トトに会っても、決まりきった挨拶をするのみとなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「陛下、まるで心ここにあらずといったご様子ですわね!」
そばで、ドリー嬢が膨れている。
「仕事の事で…今、ちょっと疲れているんだよ」
トトは嘘をついた。
「私、前々から思っていたのですが、陛下はもっとご自分に自信を持つべきです」
「私は…私は…」
急にプライドを傷つけられたような気がした。
「私は自分に誇りを持って生きている。不甲斐なさはプライドから生まれるものだよ」
それでも、ドリー嬢は膨れたまま、
「私の事をお好きではないのでしょ。陛下は!」
「それとこれとは関係ない」
「いまだにキスの一つもしてくれないわ!」
トトは、心底驚いた。
「そういう事は、心がよくよく通じ合ってから…」
少なくとも真剣に結婚を意識しているのならば、そう思う。
「常識です。私は恥をかきたくありません」
「恥?恥って…私達はこれから長い間一緒にいて、もっとわかりあっていくべきじゃないのかな」
「では、陛下はいまだに私をご理解していないとおっしゃるのね!」
ドリー嬢の声が怒声を帯びてきた。
トトは怯え、なんとか言葉をつむぎだそうと懸命に努力する。
「これからいろいろ話をしたり…共に過ごしていく中で、ゆっくりわかりあえたらいいなって…」
「私は、もう21歳になるのですよ?!」
だから、どうしたというのだろう。
トトは戸惑った。
次に発するべき言葉を失ったまま、口をポカンとあけている。
「陛下は私を弄んだんだわ!」
「そんな事はない!」
それだけは確かだった。
彼女の愚痴も聞いていたし、欲しいと言われたものを断わった事はない。
共に少しずつ歩み寄りながら、暖かな時間を紡いでいくつもりだった。
だから、こんなに怒らせるつもりはなかった。
「ま、待って!私達の間には何か大きな誤解が生じているようだ。時間をかけて考えた方がいい。
そう…1ヶ月くらい時間をくれないか」
そう言って、トトは逃げ出した。
声をかけてくると思われたドリー嬢は、何も言わずただ黙ってトトの背中を見つめている。
だいぶ彼女から離れた場所に来て、トトはもう一度振り返った。
まだ、彼女はこちらを見つめていた。
押さえ、堪えた憤怒の表情で。
“裏切られた、騙された、逃げられた”と強烈に語っているかのようだ。
トトは全身に悪寒を感じ、今度こそ本当に逃げ出した。
それから数日たったが、お人よしのトトは、ドリー嬢が誤解を解いて再び現われてくれるものだと
思っていた。
こんな時、ジュールだったら何というだろう?
急によそよそしくなった彼だが…。
しょうのない事だと自分に言い聞かせる。
いずれこうなる事はわかっていた。
私は、間違いなく…彼と過ごす時間が何よりも楽しく感じられ、彼も…もしかしたら、そう思っていたのかもしれないが、いずれその時間は終わってしまうものだった。
ジュールは、私の我が侭な行動のせいで療養する身になってしまったが、それを責める態度も言動も
一度もなかった。
私が十分に償えたかどうかはわからないが、幸いにして、ジュールは回復した。
だが、心の傷については…。
彼が、いまでも深い悲しみと共に生きているのは確かだったから。
彼の悲しみは、私には癒せないのだ。
その証拠が、アンドレア・ヴィネ嬢だ。
知性豊かな彼女ならば、彼の事が私よりもわかるのだろうし、ジュールも相談しやすいのかもしれない。
私は、ジュールにとって、ただの話し相手の一人でしかない。
彼が言ったとおり、退屈な時間を埋めるだけの存在でしかない…。
トトは一人のベッドで、そっと毛布を抱えて引き寄せた。
あの日の、ジュールの匂いと感触を探した。
眠ろうとしたが眠れず、ただ頬を涙が濡らした。
「まったく、あなたの適応力といったら…」
アンドレア嬢は悪戯っぽく笑い、言葉を続けた。
「もう少し、感情面においても柔軟であってほしいわ」
ヴィネ家での夜会。
ジュール・アルキュード候も招かれていた。
今夜の主宰はアンドレアであり、中身はほとんど異種業交流パーティといったところだ。
即ち、商売のための集まりであった。
「見て、あの紳士を」
アンドレアが、傍らのジュールの腕を突く。
「あの人は、イルミーネ国ランディ地方の新工業地帯に投資するつもりよ。
先見性があるわね。イルミーネは今後、そっちの分野で可能性がある」
「あなたも一口乗っているのか?」
「まさか、私は単独犯」
大きな瞳を細めて、アンドレアはニィと笑った。
「その様子だと、先手を打っているな」
「ふふん、どうかしら」
「あなたも商売をやるか、外交官にでもなればいいのに。イルミーネが面白いことになりそう」
「考えておくよ」
アンドレアは面白い人だった。
話をしていて退屈しない。
それどころか、うっかりしているとこちらが飲まれる。
ジュールはワイングラスを傾けた。
「ところで、あなたの父君はまだ認めてくれないのですか」
「あなたとの結婚を??」
アンドレアが声を上げて笑う。
ジュールも笑った。
「いいかげん、しおらしくしてみたらどうだ」
「あきらめてもらうしかないわね」
「私が結婚しないなんて、どうってことないわ」
持っていたレモネード入りのビールにアンドレアは口をつける。
「私達の友情が本物ならいいわね。見せかけの恋人とはいえ」
「酷い言い方だ」
ジュールもワインをもう一口含んだ。
「本当に誓いを立ててもいいと、言ったら」
「まぁ、私を口説いているつもり?」
アンドレアがくるりと踵を返すと、長いハチミツ色の髪が広がった。
いつまでも捕らわれない蝶のように。
「悪い?」
ジュールが思わせぶりに微笑むと、アンドレアは、ふと考え込むように唇に指を当て、言った。
「いやよ!あなた、老けすぎているわ!」
これにはジュールもムッとした。
「私の兄は、あなたより歳が下だと思ったが」
嫌味のつもりだったが、案の定、相手はケロリとして答えた。
「まぁ、よく存じていてよ!」
ジュールは、額に手を当てた後、複雑な表情でワイングラスへ視線を落とした。
少々、落ち込んでいる様子の彼を見て、アンドレアは軽く肩を叩いてみせる。
「見かけじゃないわ、中身がね」
「余計にいやだ」
ジュールの表情がまるでふてくされた子供のようだったので、アンドレアは噴出し、ジュールはますます不機嫌そうな顔で、人々の中へ消えていった。
「あーあ、あの人のああいうところがなかったら、私だって少しは意識したかもしれないわ」
アンドレアは一人心地呟き、それでもジュールがしばらくの間、自分を手放さないことを知っていた。
“二人の間の契約”
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アンドレアが旅先からバストール国へ戻ってきた時、彼女を待っていたのは商売の話でも金の話でもなく結婚の話だった。
叔父ビクトールは男女関係なく教育を与え、その中でも特に商才があると見えるアンドレアに自分の後を継がせたいと考えていた。
しかし・・。
「世間体というものがあります。兄さん」
アンドレアの父ジョージは叔父よりずっと封建的な人物だった。
「いい年の娘が独り身でいるなど、世間がどう噂をするか…」
「世間なんて関係ないわ、パパ」
「おまえは、まだ子供だ」
アンドレアの母も不安な表情を隠しきれない。
「女が生涯一人で生きていくなんて現実的ではないわ。あなたにはその覚悟はあるの?
男の人の倍はがんばらないといけないのよ」
アンドレアは口を噤んだ。
なぜ、男の倍もがんばらなければならないのか。
どうして、今結婚しなければ、一生涯独りだと決め付けられるのか。
もし、これが男性ならば、一人で働いて生きていくのに「覚悟はできているか」などとは聞かれないだろう。
女の身とは、どうして自らを貶めなければ、まともだと言われないのだろう。
「義兄様のお考えに逆らうつもりはございませんが、女はいろいろと知る前に、収まるところに収まったほうが幸せだと思うのです」
母は黙っている叔父に向かって、言った。
なぜ?
アンドレアは旅の途中で、無知の恐怖を知った。
外の世界を何も知らない貴婦人たち。
自分の夫の経済状況を言われるままに信じ、子供の心配ばかりしている。
本当に家の事を思うならば、夫が日々何をしているのかを知り、これから我が子が生きていかなければ
ならない世界を先んじていなければならないだろう。
自慢している場合でも嘆いている場合でもないのだ。
必要なのは“情報と知識”だ。
なのに、母を初めとして、親達は子供が無知なまま楽な暮らしができるように望む。
たしかに、そういう暮らしができる確率もあるだろう。
しかし、現在バストール国を含め諸国は貴族中心の安定した暮らしから、商人中心の激動の時代に移り変わろうとしている。
“無知”は危険だ。
知っている富豪たちが一夜にして無一文になるさまを、この目で見てきた。
「もう少しだけ時間をちょうだい」
アンドレアは、意味のない言葉を発したと思った。
「女には自由でいられる時間などない」
父の言葉。
まったく、バストール国で一番進んでいるといわれているヴィネ一族でもこうなのだ。
世間は…どうなのかしら?
すっかり悪くなった空気を振り払うように、母が微笑みながら
「次の夜会はイルミーネ国でね」
などと言った。
「素敵な方を捕まえるのよ」
と、一言付け加えて。
珍しく浮かない顔で参加した夜会。
案の定、嫌味な男がいた。
その男は、人々に囲まれてエセ笑いを浮かべていた。
たしか、以前見覚えがある。
「アルキュード候だわ!」
まわりの誰かの声。黄色い悲鳴。
進んでまわりに群がる少女達の群を横目に、アンドレアは呟いた。
ばーか、あの人は嘘つきよ。
「これは、たしかヴィネ家の方ですね」
シャンパングラスを片手に、嫌味ほど決まったアルキュード候が立っていた。
「その節は…」
たしか…だいぶ昔に、しつこい親戚の小母様に捕まりそうだったのを逃がしてあげた事があった。
「私も、逃がして欲しい気分」
唐突に言ってみたら、アルキュード候は目を見開いたが、すぐにクスっと笑って
「あなたも、ここがお嫌いか?」
アンドレアは、瞬間驚いたが、アルキュード候はあいかわらず穏やかな表情でいる。
-面白そうな人じゃない-
アンドレアは思った。
-でも、嘘つきね-
とも思った。
二人は、いろいろな意味で打ち解けた。
アンドレアもジュールもそういう意味では同じ人種といえた。
膨大な情報を引っ掻き回しては楽しむタイプだ。
そのうち、自然に噂がたった。
二人は婚約しているという者も現われた。
だが、事実は。
「あなたって、遠くから見るとただのハンサムだけど、近くにいるととても面白いわ」
独特な言い回しに、ジュールはニッコリとして答えた。
「あなたは、私の友人の中では一番私の近くにいる気がする。面白いという意味では」
アンドレアもニッコリとした。
二人は、よき友人兼悪友でもあったが、恋人ではなかった。
「あなたもこのままでいいと思う?」
「噂よ、私達」
アンドレアは言った。
「あなたに不都合な理由は?」
「ないわ、むしろ好都合」
アンドレアは見せかけの恋人を探していた。
それも話していて興味をひく人物を。
「あなたにはあるの?」
ジュールは、しばらく黙って、近くにあるランプの光を見つめた。
白磁の頬が炎の色に染まっている。
「理由がある」
と、ジュールは言った。
「あら、驚きだわ!あなたにそんな方がいらっしゃるなんて」
アンドレアは真剣に言葉を紡いだ。
「知らない誰かに恨まれるの、いやよ」
ジュールは、そっとランプのそばへいき、油が足りているかどうか確認をしている。
「さっき、係がきて入れたばかりよ」
「汚れている」
ジュールは顔を顰めて、油に浮いたゴミを銅色のスプーンで取り出した。
「ところで、あなたのお相手の話だけど…」
ジュールは、振り向き様答えた。
「私にとってもいい都合だと言ったんだ」

