僕とアンナが定期的に会うようになってから、数週間がたった。
もちろん、何も変化はない。
そんなわけで、いつものように花屋の前を通った時だった。
劈くような悲鳴と怒号。
続けて、何かが割れる音。
まさか、強盗?!
「アンナ!」
道を行きかう人々が、店のほうに視線を向けている最中、僕は店内へ走りこんだ。
「アンナ、もう一度考えなおしてくれ!」
「何度言ったらわかるの!もう関わりたくないのよ、あんたとは!!」
そこには、すさまじい表情をしたアンナと知らない男が。
「やめろ!」
アンナに掴みかかっている男の腕を押さえる。
「なんだ、おまえはっ!」
叫んだものの男はたいした抵抗も見せずに、アンナから手を離すと
「そういうわけか、新しい男だな」
と存外にも静かな口調で言った。
「出て行って」
アンナの硬い声を聞いて、男は後ずさりながら、僕をちらりと横目で睨むなり
「この女は、誰とでも寝る女だ。兄さんも気をつけな」
「・・・なんだと」
「彼女の好きな体位を教えてやろうか?」
「出て行って!」
アンナの怒鳴り声を聞いて、さっと身を翻して店から出て行った。
「大丈夫・・・?」
男が出て行くと同時にへたりこんでしまった彼女を支えて、僕は店の奥にある椅子に座らせた。
アンナは青ざめた顔で、
「大丈夫。大丈夫だから」
と僕の腕を強く握り締めた。
「警察を呼ぼうか?しばらく、僕はここにいるけれど」
「本当に大丈夫!お仕事に行って頂戴、私は大丈夫だから!」
「全然、大丈夫そうじゃない!」
前にも見た、眉間に皺を寄せた顔。
あの時は、僕の頬に着いた泥が落ちなかったため。
でも、こんなに酷い顔じゃなかった。
「あの男が君にとってどういう存在であってもいい。でも、今、君を一人にはしておけない」
崩れ落ちるように萎んでいく姿。
すすり泣く声と共に、僕は彼女を抱きしめた。
沈黙。
沈黙。
「そうやって、鬼のような形相で黙られても・・な」
「僕は、今、ありとあらゆることで手一杯なのです!」
結局、彼女のそばに半日付き添っていたために、打ち合わせは午後からになってしまった。
その間にも、またあの男がやってくるのではないかと落ち着かず、心はどこかに飛んでいってしまったようだ。
今度の議会で話す内容も上の空で・・・。
ただ、彼女を法的に救うすべはないのかと気持ちは焦り、自分が息をしている間さえイラつく。
ランチの約束も断って、一人書庫に篭り、彼女のための力を手に入れようともがいている。そこへ約束を反故にされたレオーネがやってきたのだった。
「少しは落ち着け。おまえから聞く限り、事態はそこまで切迫していない」
「どうしてわかるんだ!この間にでも彼女はあの男に脅されているかもしれないのに」
「そいつは、脅しているわけじゃない」
「見てもいないのに!」
「そいつは、刃物をちらつかせたわけでもなければ、死んでやると迫ったわけでもない」
「それは・・・そうだけど」
「復縁を迫っているとはいえ、半分は嫌がらせの類だ」
わかっている。犯罪として立証するには足りない。
レオーネは、正しいことを言っている。
でも、僕の胸は自分の理性なんか聞いてくれる状態じゃない。
レオーネが、僕のことを心配してここに来てくれたのはありがたい。
しかし、その言葉さえも素直に聞くことができない。
「気持ちはわかる。しかし、気持ちだけで行動すれば、彼女の立場を一層複雑なものにする」
「わかって・・・います」
「そばにいてやりたい気持ちもわかる。でも・・・その彼女・・果たしてそれだけか?」
レオーネが、ぽつりと付け加えた言葉に、僕は首をかしげた。
「マリウス、おまえは真っ直ぐで正直な人間だけど、そうじゃない人間もいる。望むと望まざるとに関わらず」
僕は、はっきり言って世間に疎い。
彼女がどんな事情を抱えていても、僕にはわからない。
それでも、僕はアンナのそばにいて力になってやりたい。
「これが恋というなら、なんとでも言えばいい。僕は彼女がどんな人でもかまわない」
・・・
結局、その帰りに花屋に立ち寄ったが、店は閉じられた後だった。
彼女の家も知っているが、いきなり尋ねたりしたら、それこそ怪しい男だろう。
次の日。
花屋は朝から休日だった。
アンナがどうしているのか知りたい。
知りたいのに、なぜ。
・・・・
そして、夜。
僕はレオーネと酒場にいた。
「恋なんて落ち着いてできるもんじゃないさ」
「恋とか愛とかじゃない・・・と思います。彼女が気になるだけ」
今頃、彼女はどうしているだろう。
僕のことを考えて、助けを求めて、この入り口から入ってこないか・・。
どんどん、酔いが回ってくるようだ。
「明日は休日だ。少しくらいいいだろ?」
僕の様子を見て、レオーネがにやりと口元を緩ませた。
「じゃあ、もう一杯!」
どうすれば、考えるのをやめられる?
どうして、こんなにも囚われている?
僕たちは、ほんの数週間前まで他人同士だったというのに。
どうすれば、元の僕に戻れる?
・・・
この心は、怒りで満たされている。
今にも暴発しそうなほど。
あの時、アンナに無礼な態度をとった知らない男に。
今の僕だったら、あいつをどうしているかわからない!
「・・・うっ」
足を一歩踏み出しすぎて、よろめき、レンガの壁に頬をぶつけた。
危ない、危ない・・・。
酔ってなんか・・いない。大丈夫、家に帰れる。
4つ角でレオーネと分かれてから、僕は自分のアパルトマンを目指していた。
もう少ししたら、アンナの花屋が見える。
暗闇の向こうから、ガタガタと車輪の音が聞こえてきた。
ずいぶんと立派な黒い馬車だなぁ。
ぼんやりする視界に大きくなってくる影。
避けないと・・。
僕は、ふらりと歩道に移動した。
馬車の中からは、魅惑的な赤い光がぽっと漏れていた。
赤いビロードのカーテンを引いているんだな・・・。
そんなことを思った。
微かな隙間から、知っている横顔が・・・
切ない眼差しに、ほの暗く赤い影がかかっているのを見るまでは。
彼女の大きな瞳はどこか焦点があっていなくて・・・。
今にも切れてしまいそうな細い糸で繋がれているかのような存在感。
僕は咄嗟に手を伸ばした。
今、掴まなければ!
あの人は・・・。
彼女が、誰かの膝に手を置いていたなんて、そんなことどうでもいいんだ!
彼女の細い命の糸が、僕には今にも千切れてしまいそうに見えたから!
僕が掴まなければ!
次の瞬間に、口の中に泥水の味が広がった。
鼻の中にも同じ匂いがした。
水溜りの中から顔を上げた時、馬車はもうどこにもいなくなってしまっていた。
次の日、痛む頭と頬を抑えて、僕はぶしつけながらもアンナの花屋を訪ねることにした。
あれ以来、気になってしょうがなかったし、また危ない目にあっているとしたら、法的な措置をとれるかもしれない。
僕の頭の中からは、昨夜の光景などとっくに消え去っていた。
花屋の入り口が見えたとき、同時に人だかりが見えた。
また、何かあったのか!あの男が来たのか!
走って花屋に入ろうとしたのを、誰かの手が押しとどめる。
「放せ!」
「ご関係者ですか?」
「関係者だ!」
「では、署のほうでお話を」
「何が・・・」
僕を止めているのは、警察だった。
「なにかあったんですか!!」
「こちらでは・・・」
警察に囲まれて、出てきたアンナはこちらを見て、顔を下げた。
「アンナ!」
「・・」
「ちょ・・ちょっと通してください!」
「話は署で聞きます!妨害は!!」
「一体何があったんだ、アンナ!」
警察に無理やり押しとどめられる。
僕が、なぜ?
「マリウス!」
僕の腕を強い力が、後ろから掴んだ。
「いたっ・・・」
「すまない」
頭一つ下に、見覚えのある赤い瞳があった。
「レオーネ、なんでここに?」
「おまえが、何かするんじゃないかと思ってきてみたら、この騒ぎだ」
「僕は、何もしていない!」
「そんなことは知っている」
レオーネの視線が、警察の馬車に乗せられるアンナに向けられているのを見て、僕は声を上げた。
「まさか、彼女がなにか?!」
「・・・一応、まだ容疑者という扱いらしい・・・傷害事件の」
「え・・・」
馬車の中で、静かに瞳を閉じているアンナ。
「・・・なんで」
11月の寒空の下。
それが、すべての始まりだった。
