-彼の魂に安らぎを10(本編第5章)-

イルミーネ国の物語

ー氷の聖堂にてー

夜が明けた。それさえ、どうでもいいことだった。
何時かは知らないが、うっすらと明るくなりかけている。
トトは痛む頭をさすりながら、ぼんやりと起き上がった。

ふと、おもむろに枕元に置いてある聖書に目が留まり、開けた。
内容は、よく知っている。
だからこそ、なのか。
文章がちっとも頭に入らない。
このままでは、本を広げてめくっているだけに過ぎない。

神様の愛と人間の愛は違う。
人間がいかに人を愛そうと、かならず影がつきまとう。明と暗、陰と陽…。
両方を持つからこその人なのだ。
トトには忘れられない人がいる。
アンジュー公レイチェル。
かつて惹かれた人がもっとも愛の暗部を知っていた。
そして、ジュールも思っているとおり、アンジュー公とジュールは同じ者だった。
人の感情の暗闇を生きている人たちなのだった。
人を愛すれば愛するほど、その人がいかに「愛することも愛されることも」嫌っているとわかる。
でも、ジュールが知っている愛は、あくまで暗い面だけなのだ。
アンジュー公とは違う。彼は、愛の甘美も愛の優しさも知りながら、暗闇に堕ちた人だから。
ジュールは、愛の一面しか知らない。

トトは知らないうちに傍らのノートに一文綴っていた。
自分の歴史を書いているノートに。

「愛する人を自身の感情から守る優しさも愛情だと認めない。それこそがあなたの愛し方」


ドリー嬢を好きになろうと努力していた私は何者だったのだろうか。
一生懸命、何もわからない、知らないふりをしていた私は何者なのだろうか。
私は、ジュールを愛していた。そして、彼に愛されてもいた。
アンドレア嬢のことも、ジュールは気に入っていたに違いない…が、愛してはいなかった。
私はすべてを知っていた。
知っていて、見えぬ聞こえぬふりをしていた。

人の愛など、おおげさなものじゃない。
物語のような展開が必要でもなければ、運命的な出来事が必要なわけでもない。
ふとしたきっかけで魂を奪われてしまう。
私にとっては、アンジュー公の愛は辛すぎた。ジュールの愛は深く大きすぎた。
私は、目に見えぬものに怯え逃げていた。
でも、今確かに思える。

私は、ジュールが好きなのだ。

そろそろ現実との折り合いをつけなくてはならない…。




「大変です!国王陛下が!」
大声を張り上げて、リーチェ公夫人がアルキュード公の私室に駆け込んだのは、陽が陰る頃。

「また何かありましたか?」
アルキュード公ジュールは、静かな声で尋ねた。
「どうせ、大して事でもないだろうに…」と言外で語っているような表情だ。
リーチェ公夫人は甥の事となると、いつでも「大変」なのだ。
「私が軽はずみな行動をしたばかりに、あの方に大変なご心痛を与えてしまいました」
「はぁ」
またジュールはやる気のない返事を返した。
自分の軽はずみな行動が誰かを傷つけていたことを遥か昔に知っていたら、この人と甥の関係は
もっと救われたものになっていただろう。
「私が陛下にと推挙した女性がこともあろうに、陛下と婚約を一方的に破棄…」
「ドリー嬢と陛下はまだ婚約はされていませんでしたが」
「同じようなものです。王妃候補だったのですから!陛下のお悲しみようは尋常ではなく」
この前の晩、ドリー嬢に振られたトトは意気揚々と南国のカクテルを飲んでいた…とまで言う必要はない。
「ともかく、国王陛下はそれは傷つかれて、朝からお食事も召し上がらずに聖堂に篭っておられるのです」
「…私に行けということですか」

そう言ったと同時にジュールは歩き出していた。
後ろでリーチェ公夫人の声が聞こえたが、どうでもよかった。
トトが傷ついた理由を知っていたからに他ならない。

「それなのに、私はまたあの人の元に行かざるを得ない」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


隔絶した異空間。

身体が澄んだ空気を吸うのを拒否しているようだ。
救われると思ってやってきた。
だが、自分の場所が見つからない。目の前には長椅子が連なっている。
私はどこに座るべきか?
ただ、そんなことを考えるうちに神の御前に佇んでいた。
子供のような大人のような女神像を目の前にして、そのすぐ横に刻まれた格言を読む。
「汝を愛せよ」
神様の言うことは何時も難しい。
他の国では「他を愛せよ」という教えもあるというが、イルミーネ国では大地母神のこの教えが在る。

ふと、誰もいない聖堂の床が気になって、頬をつけてみた。
何人もの人が祈りに歩いたこの道を私も歩もうとしている。
床は心を凍らせるほど冷たかった。
情熱も官能もこの冷たさで消せるのだろうか。

そうしてどのくらい時間がたったのか…。

「母上、私はどうしたら」

母の顔が浮かばない。

「父上、私は…」

父の顔も浮かばなかった。

「サン、私を助けてくれ」

片時も離れなかった親友の顔も浮かばなかった。
「きみがそばにいれば、私は元の私に戻れる。何も知らなかった頃の強い私に。
きみのその強い腕がそばにあれば…」
愛していたと思っていたはずの友の顔さえ、心の中から消えかけている。
過ごした日々は、消えないのに。
彼は、私の命そのもの…。
今だって、それは変わらないはずなのに。
虚しいほどの言い訳にしかならない。

「ジュール…」
その名を出さないつもりだった。
ただ、ただ、涙だけが流れる。
神の館の神々しい空気よりも、生々しく身体に息を吹き込んでくる熱さと苦しさ。
ダメだ。救われない。
捨てられない。
この生身の身体があるうちは。
愛とは、殺し合いだ。
どちらかが死ぬまで、勝負は付かない。

絶望と絶えがたい苦しみに、トトは全身を掻き毟った。
どうにも制御できない感情の波に翻弄され、高い悲鳴を上げた。

こんな想いのために人は、罪を犯し、人を傷つけ、取り返しの付かない過ちを犯す。

「神様、殺してください!」

誰を、とは言わなかった。
熱を発している手から、あの手に繋がる。

「ああ、貴方…」

女神像に、なぜか幼き日の友の背中が重なって見えた。

「あのまま時が止まってしまえばよかった…」

トトは、声にならない声をあげて気絶した。



このような日に…。
真新しい白銀の世界に足を踏み入れる。
幼い頃は、美しい世界を汚す行為だと感じていた。
それが、平気になったのはいつからか…。

降る雪が目の前を掠めていく。
湿った前髪を上げると、手にも冷たいものがかかった。
ジュールは自らの掌を広げ、雪を見た。
今は、もう水滴になっているそれは、誰かの涙によく似ていた。

私は、いつでもトトを泣かすんだ。

救われない想いが広がる。

だから、あの人は私のそばにいてはいけない。

私は、愛を知らない。
誰にも心から愛されたことがないから。
いいえ、あの人は私を愛してくれたのだろうか…。
そう…だから、私は何度も何度も酷い事を繰り返すのだ。
本当は、誰にも惹かれたくなかった。
もう、あんな悲劇は見たくない。
愛の過ちは繰り返す、繰り返す。
一度、人の正道を反れた者は、誰をも幸せにはしない。
私で終わらせなければ。
私に必要なものは、形ばかりの感情と他人に迷惑をかけずに死ぬ準備だけだ。

「恋愛ごっこさえ、うまくできないくせに」

今も昔も演じきれない自分に腹立つ。
この世は嘘だらけ。皆、取り繕って生きている。

「私に任された仕事は、国王を聖堂から呼び戻す事」

トト…。
この冷たさの中に、浮かぶ暖かな日差し。
素直な瞳の中にうつる私。
それ以上は、入ってきてはいけない。
貴方の運命は私の掌の中に。でも、幸せは私の外に。
そう願い続けた。


もう、復讐でもなんでもなかった。
そこには、私の父も母も叔父もいなかった。
私がそう願い続けたのは、トトのために。
この人を守るために、私は運命さえ操ろう。
けれど、幸せは私の外に。


こじんまりとした聖堂が見えてきた。
トトを呼び戻さなくては。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

誰かが外にいる…。
セバスチャンか、誰かが来たのかもしれない。
私は、ここから出たくない。
意識が朦朧としている。
ここはとても寒い…。
このまま寝ていたら、私は誰にも見取られることなく死ぬのだろうか。
そういえば、前にもこんなことがあった。
あれはもっと暑い日だったけれど。
「来いよ」
誰かが私を視線で呼んだ。
私の運命が私の名を呼んだ瞬間。
あれこそ、奇跡だった。
あのときのように、手を空に向かって伸ばした。

ところが、聞こえた声は、南国の声ではなかった。

「兄上」

聞きたくなかった声。
一番信じたくない奇跡。
願ってもいない運命が。

トトは、声を殺した。
私など、ここにはいない。
首を振り続けた。

「私は、二番柱の御仁をお迎えに来ました」

トトの顔に涙と共に笑みが浮かんだ。

そうだ。…そうだった。
あの頃から、私は少しも変わってはいない。
いくら昔に戻ろうと願っても。
今の感情は、もう変わらないのだ。

私はこの人が好きです。

あふれるほどの想いで、好きです。

ごめんなさい…。
身体に力が入らない。
トトは嗚咽を殺した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

返事はない。
待っていよう。
きっと出てくる。
待ち続けていよう。

ジュールは、ドアの前に腰を下ろした。

私は、トトを泣かせてばかりいる…。

「ね、そうでしょう。…母上」


白い吐息が空に消えていく。

再び瞳を開くと、この寒さの中で赤い花が咲いているのが見えた。
あの雪の日の、母の花冠。
それを被り、銀色の衣をした母が立っていた。
母は美しかった。生前のどの時よりも。
「やっと、私はこの生から逃れられる」
違うという風に母は首を振った。
「なぜ私を生んだのです」
聞かなくても知っているが。父のためだ。

「愛という名の幸せがあると信じていました」
と母は言った。
「それが間違っていると私は知っている。愛は…悲しさしか生みません」
「私が知らなかったのは、幸せには名などないこと…。愛は愛でしかない。いかなる愛であっても」
「では…私は一体…」
悔しくて、悲しくて、寂しくて…。
「どうして、生まれ、生きてきた…」
「私は生きている間に、あなたに教えられなかった。あなたと過ごす幸せを。
私は気が付かなかった。すぐそばに幸せがあったこと」
「では、今度こそ私をあのバルコニーの下に連れて行ってくれますね」

雪が頬をなぞった。

「ごめんなさい…」

「どうしてそんな事を…」

「ジュール」
頬を滑り降りた雪は暖かい雫に変わっていた。

「私は生きている」
「どうしてこんな…」
暖かい。
大地の色をした瞳が潤んでいる。
素朴な顔がくしゃくしゃに濡れている。
「…トト」
心に春の風が吹いた。
どうしてだろう。
この人に会っていない時は、心が凍りつきそうだったのに。

「あの時のように途中で逃げられたくはなかったのから、待っていた」

どうしてだろう。
私は、いつの間にか、こんなふうに笑えるようになった。
泣いているトトの手をとり、頬に当ててみた。

「…つ…めたい」
涙をこぼしながら、トトが呟く。
「私は暖かい」
「こんなところにずっと長いこといたんだもの。凍えて…凍えてしまうよ」
「どうしてかな、あなたをずっと見ていたい」
私は、死ぬのだと思っていた。
いや、もう死んでいるのかもしれない。
ならば、ここにいる私は何者なのだろう。

トトは涙を拭った。
「そのままでいいんだ。…いつでも、そのままのあなたでいい」
涙を拭いて、という人もいうだろう。私はあいかわらず酷い男なのだ。
「私は…」
悲しそうな声で、打ちひしがれた様子で、トトの瞳があふれるほどの愛情を伝えている。
私は、本当は知っていた。
愛情が暖かいものだって。
でも、それを認めたら、私は何のために生まれて生きてきたんだろう。
自ら切り裂いた頬の傷にトトの涙が沁みる。
「私は、自分が嫌いなんだ。大嫌いだった。だから、私は誰も愛せない。自分を愛せない人間が
他者を愛せないって誰かが言っていた。あなたなら、今の私の言葉がわかるでしょう」
「なんて…なんて悲しいことを、辛すぎるよ」
トトはジュールを抱きしめた。
「誰がそんな酷い言葉を教えたの?誰が言ったの?」
「酷い…?」
少なくとも私が知っている世の中なら、誰もがそう思っている。
私こそ、この言葉を一番知っている人間だ。

「もし、ジュールがジュール自身を愛せないのだとしたら、私がジュールをジュール以上に愛する…よ。
だって、だって、こんなに素敵な人だもの」
トトの腕が強く身体を抱きしめた。
「私は、あなたに…ずっと長い事嘘ばかりついてきたのに…」
それでも、トトは首を振った。
「あなたは、私が本当に病気で意識を失っていたと…思っているのか。私は、意識の中であなたを見ていた。
本当は…目覚めていた」
ゆっくりとトトの手が背中を撫でたのを感じ、
「私の母が事故で…死んだというのも嘘で…本当は私の目の前で死んでいった。私は助けられなかった。
私が見殺しにしたと知っても」
トトは顔を上げて、涙をこぼした。そして、私の涙を拭った。
「何度も考えていた。私があなたにこだわるのは、父への復讐だと。どこにも愛情のかけらもなかった。ずっと愛に似たものだと思って生きてきたけれど」
トトは胸に手を当て
「愛なんて…決められない」
と言った。
「人を好きになったら、きっと不幸が始まる。愛情とは不確かで醜いもの。それでも…あなたは 」
私を愛するというのか。
「それを知っている人だから、私は愛した」
臆病なほど優しくて、見通せないくらいに大きな愛情を持っている人だから。
「どこまで、お人よしで面倒をかける人なんだ。昔から」
ジュールは、トトの上着をかけ直した。
そうして、小さな身体を包んだ。

「愛してる」
もう…それ以上に言う言葉が見つからなかった。

続く

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